アジャイルって「欧米か!」

今、私自身のとあるセミナーの準備のために「リーンソフトウエア開発?アジャイル開発を実践する22の方法?」を読み直しているのですが、ふと先日のAgile Japan 2009のことを思い出して、日本でアジャイルの理解を阻害する大きい原因の一つは、アジャイルを説明する際に誤った視点と誤ったコンテキストを使用しているからではないかと思いました。
それは、私がアジャイルを説明するときには多くの場合で、欧米人が、欧米人による視点で、欧米人に対する説明のために使用している言葉をそのまま引用していると思うのですが、この欧米人の視点やコンテキストが日本人(日本におけるソフトウェア開発の現場)のそれとは全く違うために、いくら説明してもうまく伝わらないのではないかと思えてきました。
あるいは、説明する相手に欧米人の視点やアジャイルにおける欧米人にとっての背景(コンテキスト)を理解させようと努力している気がするのですが、よく考えればそれはあくまでもアジャイルを説明するための手段でしかないので、そもそもアジャイルの理解に興味がない相手にとっては意味のない*1ことだということに気がつきました。
これからは欧米人の考察は参考にしつつ、改めてアジャイルが私たちの現場にとってどういう意味があって、私たちの言葉でどのように説明できるかを考えてみたいと思いました。*2


そう思って改めて日本のソフトウェアの現状を考え直してみると、アジャイル以前の(ウォーターフォールモデルに代表される)科学的管理法の考え方を適用する時点で既に消化不良を起こしていて、先ずはこの消化不良を克服することに精いっぱいになっていて、さらにCMMIとか何とかをクリアして成長しなければならないし、、、といった感じでアメリカのトレンドを追いかけていて、アジャイルなんてまだまだ及ばないというところではないかと思えます。
一方で日本の製造業のものづくりの現場は欧米の知恵を取り込みつつ、しかし本質を見失わずに自分たちの知恵と強みを生かして厳しい競争の中で先頭に立ったのだと思います。
ソフトウェア開発でも製造業のものづくりに見習って道(本質)を間違わなければ、周回遅れの様に見えたのがいつの間にか先頭を走っているなんてことがありうると思っています。
それが私が日本でのアジャイルにひそかに期待しているところなのです。

*1:当然、理解してもらえればそれだけ価値があるというつもりでこのような手段を取るのですが、事前に価値があるかどうかわからない相手に対して有効な手段とは言えないと思えてきました

*2:私の理解による私の言葉で説明されたものが「アジャイル」と言えるかどうかは議論の余地はあると思いますし、実際に「アジャイル」的な活動をされていながら「アジャイル」という言葉を使うことをためらう方がいらっしゃいますが、今のところ私はあえてスローガンとして「アジャイル」という言葉を使おうと思っています